さらば、我が青春のミッドナイト


1994年、私がはじめて手にした指定券

 札幌と函館を結ぶ快速「ミッドナイト」が登場したのは、手元の資料によると1988年7月1日のことだったらしい。が、私にとってはミッドナイトは1994年8月13日がデビューの日であり、以後最後に利用した2002年1月4日まで、それこそ数知れず利用してきたなじみの列車であった。そしてその8年という期間は、まさに私にとっての転機の時期であり、いわば貴重な青春時代であり、ミッドナイトもそのアルバムの中に何度となく顔を出している大事な登場人物である。いや、あった、というべきかもしれない。その報を知ったとき、私の中には「まさか、そんな…」という思いと、「ついに来るべきときが来てしまったか…」という、ある種相反した二つの感情が同時に去来した。そう、来る12月改正での、ミッドナイト廃止の報である。この駄文は、その思い出をつらつらと書き綴ったものである。

 私が初めて彼女を利用したのは、先述したとおり1994年8月13日のことであった。私が高校2年の夏、である。この時は、家族で北海道に旅行した帰り、私一人が別行動で札幌から一人で大阪まで鈍行で帰った時、利用したのであった。如何せんかなり前の話であり、私もそのときのことをはっきりと覚えているわけではない。むしろ、そのときのメインディッシュとでも言うべきものは翌日訪れる予定にしていた小阪鉄道であり、ミッドナイトは所詮移動手段、一夜の宿に過ぎなかった。そのときの旅日記には、ただこう記されている。
 3980D
ミッドナイト 3号車11D
 キハ27 501 R
現在AM1:38 東室蘭 極めて快適 ただ、やや寒い

函館にて

 いまさら改めて書くほどのことでもないが、この列車はひた走ってしまうと函館に恐ろしい時間についてしまうため、途中東室蘭と長万部で長時間停車をし、所要時間の調整を行っていたのである。この手の列車に乗りなれている方なら経験なさってる方も少なくないだろうが、夜行列車というのは列車が走っているとき熟睡していても、列車が停車してしまうと目がさめる、ということが往々にしてある。それが長時間停車だったりするとそのまま停車している間目がさめてしまったまま、なんてこともしばしばあったわけで、この列車の場合必ずその二つの駅で目がさめたものだが、これは初めて乗った時も言わずもがな、であったということであろう。あと、夏場はクーラーが効きすぎて寒く、冬場は暖房が効きすぎて暑い、というのもこの列車に限らず夜行鈍行・快速にありがちな話であった。この時はまだ自分が札幌に住むことになるなどということは夢にも思っていなかったため、次にこの列車に乗るのはいったいいつの日になるのだろうか?というようなものであった。

 その「次」が来るのは2年後の夏、1996年7月20日のことであった。その間、私には大きな転機である北大受験があり、晴れて1996年4月より札幌住民になっていたのである。そして、この時のミッドナイト利用は初めてミッドナイト→ムーンライトえちごという黄金乗り継ぎを敢行したときでもあった。ちなみにこの時は、ミッド→MLえちご→大垣救済臨→ML九州という、過去最大級の連続乗り継ぎでもあった。このときを皮切りに、以後帰省や東京へ出るとき、急いでいないときは必ずといっていいほどミッドナイトを利用するようになっていったのである。

札幌にて

 この写真にも写ってるが、まだこのころはあたりまえのように急行色のキハ58(56)が活躍していて、ミッドナイトの自由席には必ず彼女の姿が見られた。そのキハ56も今はすでに過去帳に入り、時代の流れというものを改めて感じてしまうのである。

 過去2回の利用はともに指定席の座席車を利用していたのだが、初めてカーペットカーを使ったのがその次の利用となった1996年12月25日である。いいかげん利用も3回目ともなるとカメラを向けることもなかったらしく、この時の写真はなかった。初めて私がコミケに参加したのもこの時の帰省で、この時はミッド→えちご→9372M→9375Mで、コミケ上がりの9375Mから中央西線回りで飯田線まで繰り出してから実家に帰るという、これまたハードスケジュールを敢行していた。この時のカーペットはあまり乗り心地がよくなく、以後指定券を取るときは座席のほうを指定するようになっていった。どうにもエンジンの振動や音がもろに響くのがこたえたらしい。多くの鉄ちゃんがむしろその振動がいいという中、私はミッドナイトをはじめとする夜行快速にはどちらかというと寝る環境としていい環境を求めていたのでそういう感想を抱いたのであろう。裏を返せば、それくらいミッドナイトを筆頭とする夜行快速という存在が特別なものではなく、ごくごくあたりまえの「移動手段」として捉えられていた、とも言えるかもしれない。

 とはいえ、毎度毎度座席の指定が取れたわけではなく、次に利用した時、1997年3月も実はカーペットに陣取っている。この時は初めて道内旅行だけのためにミッドナイトを利用しており、また初めて下りのミッドナイトを利用したときでもある。要するに、往復ミッドナイト、というわけである。この時は、上りの出発時に送迎をしていた北大生がドアの窓ガラスをぶち壊すという荒行をやったおかげで札幌の出発が15分遅れた、というハプニングのおまけもついていた。そのときの日記には
さすがはアホの北大生、
所かまわず札幌の駅で
ストームをやっている。だから
といって、ドアのガラスをぶち
ぬくこともあるまい・・・

と、記載されている。まぁ、むべなるかな、である。

 ここまではずっと指定席を利用していた。なんせ、繁忙期であろうが何であろうが300円である。手段としての夜行列車にまで「旅情」を求める気はなかったし、リクライニングは極めて快適だった。だから、取れる限りは指定席を利用していたのだが、毎回毎回確実に取れたわけでもなく、初めて自由席の客となったのが、97年8月のことだった。このころの自由席車両にはキハ56が主に使われており、中には床が木張りという空恐ろしい車両もまだ闊歩していた時代である。自由席車両というのは、ボックスを占有、悪くとも向かいに人がいない状況だと指定席車両並に快適な夜が約束されるのだが、混んでいると、向かいに客がいると不快指数は120%、通路に立ち客なんぞがいた日には400%突破という、多分にギャンブルっぽい側面を持っていたものである。とはいえ、ミッドナイトの自由席で立ち客が居た場面には結局出会ったことはなかった。

函館にて

 この後も、ほぼ毎年夏冬利用というパターンが続いてはいたものの、徐々に出歩く頻度が少なくなり、自身の退学などもあり、遠出をする回数は確かに減少の一途をたどってはいた。その中でもミッドナイトだけはコンスタントに年1回は利用するというパターンが続いた。そんな時の流れの中、自由席に充当されていたキハ56の一般車が引退してしまい、ミッドナイトの編成にも変化が出た。

長万部にて
この写真、2000年8月の光景である。少々見にくいが、2両目はキハ182、3両目がキハ27ミッドナイト色、最後尾がキハ40という、かなりの大混合である。このときの旅日記が残っていないのでどの車両に乗ったのか定かではないが、なんともすさまじい編成になったものである。これが、最後から数えて4回目の利用、であった。

 ラスト3、それは学生・プータロー時代を通じて最後の利用となった2000年12月のことだった。このときにはすでにミッドナイト用キハ27も引退してしまい、キハ183がその任にあたっていたのだが、如何せん座席が悪かった。ミッドナイト用キハ27の座席というのは元グリーン車用のものを転用していたため、キハ27とはいえ座席のレベルは高かった。ところが、キハ183に変わってから、座席は183系オリジナルの物が使われていたためにリクライニングの角度も座席の幅も、かなりのレベルダウンとなってしまっていたのである。外見だけ見るとレベルアップにも見えなくもなかったが、実質的なレベルダウン、凋落であった。この時は大雪のために道内のダイヤも乱れ、札幌を定時にではしたものの白石発車時点で58分遅れという、当時としてはミッドナイト利用歴史史上最高の遅れを記録していた。とはいえ、この程度の遅れはミッドナイトにとっては屁でもなく、函館にはちゃんと定時についている。むしろその後の秋田-村山間がすさまじかったのだが、それはまた機会があれば項を改めて書きたいと思う。

 いよいよラス2のミッドナイトである。2001年12月のことだが、私が一応仕事を初めて最初の、そして最後となってしまったミッドナイト利用であった。これが実にすさまじく、札幌発が2時間35分遅れ、そして珍しくも函館着が20分遅れという、私の旅史上でも1・2をあらそれるほどの大きな遅れを記録していたのである。この年は突発的にドカ雪が降り、その度に交通網が麻痺するという年で、千歳空港が2日ほど閉鎖の憂き目を見たのもこの年であった。その大雪にものの見事にあたってしまい、風通しのいい札幌駅改札前でミッドナイトの改札が始まるまでおおよそ2時間以上、立ちっぱなしという、できればもう2度としたくない経験をさせてもらったのも、もはや今となってはいい思い出にしか過ぎない。
 そして、おそらく生涯最後の利用になるであろう、ミッドナイト利用が、その帰路、2002年1月のことであった。この帰路は、ミッドナイトに至るまでの過程が波乱に満ちていたのだが、ミッドナイト自身は、いつものミッドナイトであった…。まさかそれが、今生の別れになろうとは思いもしないまま、最期を迎えてしまった…。その後、程なく私自身の大阪転出が決まってしまい、最後北海道を出るときに利用したのが「日本海」だったため、これで私と彼女の日々は終わりを告げたのである。

 当たり前といえば当たり前なのだが、彼女との付き合いの時期というのが私が札幌にいた時期、すなわち大学入学→退学→就職という、今までの人生の中で一番の波乱の時期と重なっていたため、勢い色々なものが重なってしまう。まさに、「青春のミッドナイト」であった。ミッドナイト自体を目的とした旅というのはなかったが、あくまで手段として使っていただけに、いざなくなるとなると寂しさもまたひとしおである。「ミッドナイト」「海峡」は去り、「ムーンライトえちご」も来年165系が撤退するという。「時の流れとは残酷なものだ」とはよく言ったものだが、今の私の心境はまさにそれである。今の環境だと遠出もままならない。好きで出不精になっているわけではないがなかなか遠くにいけない。それと機を同じくするかのように消えてゆく盟友達に、今いえるとすれば、ありがとう、さようなら…

いつも隣には彼が居た…青森にて

2002年10月29日 0:35 自室にてウィスキーを傾けつつ

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