薔薇の生涯

「以上で、私の演説を終わらせていただきます」
講堂に、祥子の声が響き渡る。沸き起こる拍手。その拍手は、今まさに咲こうとしているつぼみに向けられる、祝福の拍手にも見えた。その中に、静かに散りゆこうとしている薔薇の姿が、あった。
(これで、山百合会は何の心配もないわね…)
祥子を見つめるその視線はどこまでも暖かく、そして少しだけ、寂しそうだった。


 丁度一年前、蓉子達もまだ、薔薇さまと呼ばれるる立場ではなかった。
「ちょっと聖、早くしなさいよ」
「わかってるわよ…まったく、蓉子はうるさいんだから…」
いつものような会話が交わされているその場所は、しかしいつもの場所ではない。そこは講堂の裏、立ち会い演説会の控え室だった。
「何言ってるのよ。あなたが余りに自覚がなさ過ぎるからでしょ。あなた、今日は生徒会役員選挙の立ち会い演説会だって、わかってるの?」
「そんなの、オーディションみたいなものでしょ。どうせ信任投票なんだし、よっぽど変なこと言わない限り大丈夫よ」
どこまでもマイペースな聖に、いつもより少し語気が強い蓉子。そんな二人を見ている祥子も、普段よりも少し不安顔になっている。
「オーディションって…選挙よ選挙。もうちょっと真面目にやって頂戴」
「大丈夫よ…私が不真面目でも、蓉子は二人分以上真面目だから」
しれっとした顔で無責任なことを言う聖に、蓉子が呆れ顔で文句の一つも言ってやろうとした時、江利子も控え室に入ってきた。妹である令も一緒だ。
「あっれ…?私より先に聖が来てるなんて…珍しいこともあるものね」
「蓉子に無理やり連れてこられたのよ。小学生じゃあるまいし、一人でも来られるのにね」
大げさなジェスチャーで「お手上げ」ポーズの聖、腰に手をやって呆れ顔の蓉子、そしてこれといって表情を浮かべていない、でも無表情というわけでもない、微妙な表情の江利子。まさに三者三様、といったところだ。
「よく言うわよ…そう言って今までどれだけ約束をすっぽかされたか…」
「蓉子も大変ね」
「ちょっと…他人事のように言わないでよ」
澄ました顔でさらっと言う江利子を見て、さらにうんざり顔の蓉子。そんな雰囲気からは、とても立ち会い演説会の直前とは思えない。
「お姉さま…頑張ってくださいね」
そんな風に、江利子に声をかけている令の方が、よっぽど緊張しているように見える。
「ありがと。と言っても、信任投票だし、落ちる方が難しいとは思うけど。それはそれで面白いかしら」
いつもの調子で、さらっと凄いことを言っている江利子をみて、蓉子の額のしわは深まるばかりだ。
「江利子までそんな事を…。もうちょっと真剣にやってよ…」
いつもの光景が繰り返されているだけといえばそれまでだが、今日は仮にも生徒会役員選挙の立ち会い演説会当日だ。本人はともかく、端から見ている妹としては気が気ではない。
「お姉さま…大丈夫ですか?」
普段はあまり感情を表に出さない祥子も、そんな姉の様子を心配そうに見ている。
「え?ええ、今日のことに関しては大丈夫よ。でも、これからのことを考えると、ちょっと頭が痛いわね…」
妹から声をかけられ、ようやく顔に笑顔らしきものが戻ってきた蓉子を見て、祥子は少し驚いたようだ。
「お姉さまは…凄いですね…」
祥子からしてみると、すでに選挙の「後」の事を考えている蓉子の姿が、意外でもあり、眩しくも見えたのだろう。
「え?そうかしら…。まぁ、こういうことは慣れているからね」
そんな事を言われるとは思っていなかった蓉子だが、妹からの賞賛を受け、ちょっと恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに、穏やかに微笑んだ。
「いいわねぇ…蓉子と江利子には応援してくれる妹がいて。私ゃ寂しいわ」
蓉子と祥子の様子をしばらく眩しそうに見ていた聖が、そんな事を言う。もちろん、本気で言っているわけではなく、その口調はどこまでも軽い。
「そう思うのなら、あなたも早く…」
「じゃあ、私が代わりに応援してあげようか」
蓉子が、妹を迎えなさい、と続けようとしたそこを狙ったように声をかけてきたのは、聖のお姉さまであるロサ・ギガンティアだった。
「お姉さま…いらっしゃってたんですか…」
思っても見なかった人物の登場に、聖も少し戸惑ったような表情をしている。
「あら、私がここにいるのが、そんなに不思議?」
「いえ…受験でお忙しいとお聞きしてたので…」
「忙しいわよ?でも、勉強ばっかりだと息が詰まっちゃうから、あなたの顔を見に来たんだけど。迷惑だったかしら?」
「…こんな私の顔でよろしければ、いつでも」
いつもは飄々としている聖も、お姉さまの前では年相応の表情を見せる。その表情を見ていると、聖にとってお姉さまがどれくらい大事な存在なのか、というのがよくわかる。
「そうそう、山百合会のこと、よろしくね」
と、そこで思い出したようにロサ・ギガンティアが切り出した。何故か、蓉子に向かって。本当なら、ここでその言葉が掛けられる相手は聖だろう。でも確かに、ロサ・ギガンティアは蓉子に向かってそう言った。
「え?何故私に…」
ロサ・ギガンティアは、それには答えずに、笑いながら聖に向かって言った。
「あんまり根詰めちゃ駄目よ。折角蓉子ちゃんや江利子ちゃんみたいなしっかりした子が隣にいるんだから、面倒な事は全部蓉子ちゃん達に任せちゃいなさい」
「お姉さま…」
「ロ、ロサ・ギガンティア…」
「と、言うわけで。よろしくね、蓉子ちゃん」
そこには妹への愛情と、その親友への信頼が確かにある。それを感じ取れるからこそ、蓉子もそれ以上何もいえない。
「それでは、ただいまより山百合会役員選挙、立ち会い演説会を開始いたします」
「時間みたいね。それじゃ、三人とも頑張ってね」
講堂の方から聞こえていたざわめきが、静まっていく。それを聞き届けて、ロサ・ギガンティアが外へと出て行った。
「じゃ、お先に」
「行ってらっしゃい」
「笑える演説、期待してるわよ」
名前を呼ばれ、蓉子が演壇へと向かう。友人の軽口に苦笑いを浮かべてはいるが、その表情は凛として迷いがない。その姿は、まさに大きく開花しようとする薔薇の花、であった。

「まったく…聖は何やってるのよ…」
選挙当日、薔薇の館で投票結果の発表を待っているのは、蓉子と江利子、そしてその妹の祥子と令。そこに、本来いるはずの聖の姿はない。
「いいじゃない、別に本人が確認しようがしまいが、結果が変わるわけじゃなし」
優雅に食後の紅茶をすすりながら無責任なことを言う江利子には、緊張の気配は感じられない。聖の不在を嘆く蓉子も、緊張と言う雰囲気ではない。
「どうせなら教室まで迎えに行けばよかったのに」
「私は聖の保護者じゃないわよ。そこまで面倒は見れないわ」
「あら、そうだったの?私はてっきり保護者だと思ってたんだけど」
「…全面的に否定できないところが悲しいわね…」
江利子の答えに、思わず机に突っ伏してしまう蓉子。
「お姉さま、そろそろ…」
蓉子よりもずっと緊張した面持ちの祥子が、時間を確認して声をかける。時計の針は、一時二十分。大体、一時半頃には開票が終わるだろう、と言う話だったから、いい頃合だ。
「そうね。じゃあ、いきましょうか、江利子」
「あら、もうそんな時間?で、聖はどうするの?」
「どうもしないわよ。聖だって、発表の時には来るでしょ。それに…」
蓉子は一つ溜息をついて、諦めたように呟いた。
「それこそ、聖が来ようが来まいが、結果は変わらないわよ」

 薔薇の館で蓉子が聖の不在を嘆いている時、聖は一人、お聖堂に佇んでいた。
「あら、珍しいわね、こんな場所にいるなんて」
「お姉さま…どうして」
「なんとなく、ね。どうしたの?栞さんのことでも思い出してた?」
「そういうわけではない…と思うんですが…気が付いたらここに足が向いていました」
「そう」
なんとなく二人でマリア様の前に立つ。世の中の喧騒から遠く離れたこの場所にいると、まるで世界中に二人しかいないような錯覚すら覚える。ほんの数ヶ月前、世界中に背を向けて、たった一人の事だけを見ていた日々が、すでに遠い過去のようにも思える。そんな聖が、今こうやってこの場所に留まっていられるのは、今目の前にいる「お姉さま」と、一人の親友のおかげだった。
「…お姉さま…私に、『薔薇さま』と呼ばれる資格は、本当にあるんでしょうか…」
いつもは飄々として人に弱みを見せない聖も、「お姉さま」の前では相応の顔を見せる。
「あなたらしくないわね。この場所が、そんな弱気を言わせるのかしら?」
「……」
「選挙で選ばれるのなら、あなたにはその資格がある…いえ、義務、という方がいいのかもしれないわね」
「それは…」
「不安になる気持ちもわかる。でも、どうにかなるものよ、案外ね。私だって、一年前は同じような気持ちだったし」
「でも私は…お姉さまみたいに優秀じゃないです」
「私だって、優秀というわけではないわよ。でも、優秀かどうかは問題じゃない。選ばれた以上、その役割を果たす。そういうものよ」
そこでふっと言葉を切り、聖の方に向き直って、言葉を続けた。
「でも、不安になる気持ちもわかるわ。これで、少しは落ち着くかしら?」
そう言いながら、腕を聖の首元に回し、そのまま自分のほうへと抱き寄せた。
「お、お姉さまっ…?」
予想していなかったその行動に面食らい戸惑っていた聖も、ロサ・ギガンティアの腕が首元から背中へと降りてくるのを感じると、静かに目を閉じ、少し、涙をこぼした…。

「ありがとうございます。お姉さま」
どのくらいそうしていただろう。聖にとっては永遠とも思えた安らぎの時間だったけど、そう言って上げた顔には、静かな決意と、ほんの少しの寂しさが浮かんでいた。その表情を見て、軽く頷き、微笑んだロサ・ギガンティア。
「もう大丈夫みたいね。そういう表情の方が、『あなたらしい』んでしょうね」
「私、いつもお姉さまに助けて頂いてばかりです…」
「私はあなたの『お姉さま』よ。気にすることはないわ。それに、聖の無防備な素顔を見られると思えば安いものよ」
聖の首にかかるロザリオの鎖に触れながら、穏やかに微笑むロサ・ギガンティア。他に誰もいないその空間に、穏やかな空気が流れる。
「さあ、そろそろ行きなさい。蓉子ちゃん、痺れを切らしてカリカリしてるんじゃない?」
言われて確認すると、時計はもうすぐ一時半。蓉子から聞いていた、開票が終わるという時間だ。開票前に集まろうという約束をしていたわけではないので、別に約束を破ったわけではないが、蓉子は当たり前のように薔薇の館で「その時」を待っているであろう。聖としては、そこでの雰囲気というのが何となく嫌で、こんなところに逃げ込んでいたわけだが。
「そうですね。また怒鳴られちゃうかもしれません。…本当に、ありがとうございました、お姉さま」
ロサ・ギガンティアに軽く頭を下げ、お聖堂を後にする聖。その後姿を見届けると、ロサ・ギガンティアはマリア様のほうへ向き直り、そっと語りかけるようにつぶやいた。
「一年間…あっという間でした。色々あったけど、これでよかったんですよね、お姉さま……」

「あっ、聖っ。一体どこで何していたのよ」
開票結果の発表場所、講堂前に着いた聖を迎えたのは、やはり蓉子の怒った顔だった。あまりにも予想通りの反応に、思わず笑ってしまう聖。そんな聖の反応を見て、蓉子が気分を良くするわけもない。
「何がおかしいのよ」
「いや、やっぱり蓉子は蓉子だな、って」
「何よそれは…」
聖の、要領を得ない言葉に、蓉子も何となく気勢をそがれてしまう。これも、今までに幾度となく繰り返されてきた光景だった。
「ごめんごめん、ちょっと眠たかったから、昼寝していた」
「まったく…結果が気にならないの?」
「結果なんて、見なくてもわかってるもの」
「あら、随分な自信だこと」
「別に、当選してるとは言ってないけど?」
「またそういうことを…」
「それに、薔薇の館で待機していても、結果は変わらないわよ」
「はは、それもそうね」
聖の言葉に笑いながら応える江利子を見て、蓉子も完全に文句を言う気がなくなってしまったのだろう。
「……もういいわ。早く結果を確認しましょう」
呆れたような、諦めたような、そんな表情でそう言っただけだった。

「やっぱり、蓉子の票が一番多かったわね」
掲示板に張り出されていた結果は、蓉子がほぼ満票の得票、次いで江利子、聖の順番だった。もちろん、その結果は、三人とも信任、というものである。
「あーあ、でも、江利子にも勝てなかったのはちょっと悔しいわね」
口ではそう言ってるが、その表情には悔しさのかけらも感じられない。
「普段の行いの差よ」
返す江利子の言葉も、心なしか普段より少し弾んでいる。口ではああ言っていたけど、やっぱり結果を見てほっとした、という事もあるんだろう。
「じゃ、そういうことで。一年間、頑張ってください、ロサ・キネンシス」
「そ、私達の分まで、頑張ってね、ロサ・キネンシス」
いつもの調子でさらっととんでもないことを言ってのける聖と江利子に、さすがの蓉子も目を白黒させるしかない。
「な、なんでそうなるのよっ」
「だって、一番人気だったじゃない。その人気には応えなきゃね」
「そうそう、全校生徒の期待、裏切らないでね」
「……その言葉、そっくりそのままお返しいたしますわ、ロサ・ギガンティア、ロサ・フェティダ」
「おー、怖い怖い」
「泣く子とロサ・キネンシスには勝てぬ、ってね」
そんな三人に声をかけたのはロサ・フェティダだった。隣に、ロサ・キネンシスとロサ・ギガンティアも並んでいる。
「とりあえずは、おめでとう、ね。これで私たちも、安心して卒業できるわ」
「あ、お姉さま。ありがとうございます」
三人に、そして江利子に向けた言葉には、祝福の思いとともに、安堵の色が見て取れた。
「立派な『薔薇さま』になれ、なんて言わないわ。悔いの残らないようにやれば、あなたなら大丈夫。精一杯やりなさい、蓉子」
「ありがとうございます、お姉さま…」
蓉子だって、『お姉さま』の前では一人の妹の顔になる。ロサ・キネンシスに励ましの言葉をかけられ、素直に嬉しそうな表情を見せた。傍らには聖の肩をポン、と叩くロサ・ギガンティア。それに、少し微笑みながら、しっかりと頷いた聖。そこに言葉はないけれど、伝えたいことは伝わる。そういう事なんだろう。
「さ、一度薔薇の館に戻りましょう。新しい薔薇さま達の前途を祝して、飛び切りのお茶を煎れてあげるわ」
ロサ・フェティダの声に、一同が移動する。三者三様の光景、それはまさに、引継ぎの儀式だった。


 立ち会い演説会が終わり、蓉子が講堂を出ると、所在なげに佇んでいる聖がいた。
「終わったんだ。演説会」
蓉子の姿を認め、声をかけてくる聖。その雰囲気は、たまたまそこにいた、というようには見えなかった。
「気になるんだったら、講堂で聞けばよかったのに」
「別に、気にはならないけど」
「そう?」
気にならないのならこんな場所にいるわけないじゃない、とは思ったけど、本人が「気にならない」と言っているのだから、そこは突っ込むところじゃないんだろう。そう思って、蓉子も深くは突っ込まなかった。
「蓉子も暇ね。選挙権もないのに」
「興味もないのに会場の前でぶらぶらしてる人に言われたくはないわね」
「そりゃそうだ。あ、江利子っ」
目ざとく江利子を見つけ、手を振る聖に、江利子はちょっと意外そうな顔をして二人の元へと近づいてきた。
「なんだ、二人ともいたんだ。気が付かなかった」
「いや、私は見てない。蓉子だけよ」
「そうなんだ」
どこへ行くともなく、歩き出す三人。冬の空は澄んで、どこまでも高い。
「なんか、あっという間だったな…色々あって」
「よく言うわよ…適当にサボってたくせに」
「それは、言わない約束」
蓉子の鋭い突っ込みに、舌を出しながらおどける聖。
「でも…これで、『薔薇さま』って言う称号とも、お別れか…。ちょっと寂しいわね…」
「そう?私はせいせいしたかな」
「ふふ、聖らしいわね」
江利子が聖の言葉に笑うと、蓉子はふいに江利子と聖の方に向き直り、軽く頭を下げながら言った。
「ロサ・フェティダ、ロサ・ギガンティア、一年間、お疲れ様でした」
突然の蓉子の行動にちょっと驚き、顔を見合わせた江利子と聖も、軽く頷きあい、そして蓉子と同じように、頭を下げ、言葉をかけた。
「こちらこそ、お疲れ様でした。ロサ・キネンシス」
「お世話をおかけいたしました、ロサ・キネンシス」
そして三人でもう一度顔を合わせ、三人で、笑った。
「さ、行きましょうか、江利子、聖」
薔薇さまという称号を下ろした三人の背中は、少し身軽に、そして少しだけ、寂しそうに見えた。

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