武嶋蔦子はプティ・スールの夢を見るか?
「高校進学、おめでとう」
「お姉ちゃんも、大学進学おめでとう」
今までと余り変わらない制服、そして今までと余り変わらない朝。でもその朝は、やはりどこか特別な朝だった。
「行ってきます」
春は別れと出会いの季節。卒業された上級生との別れと、同じ数だけの出会いがあるはず。特別な出会いはなくてもいい。でも、この青空を見ていると、そんな出会いがあるんじゃないか、なんてことを思ってしまう。本当は、薄曇の方がいい絵が撮れるんだけど、そんな野暮は言いっこなし。今日はきっと、いい絵が撮れる、そんな風に思える青空が、広がっていた。
「「ごきげんよう、笙子さん」」
入学式の日、マリア様に手を合わせていると後ろから知った声がかかる。
「ごきげんよう、美幸さん、敦子さん」
中学で同じクラスだった二人、二ヶ月ほど前、この三人で高校の敷地に潜り込んだその日から、私はこの日が来るのを心待ちにしていた。そこにいる、あの人に再び逢える、この日を。
「同じクラスになれるといいですわね」
「そうね…」
私も、自分のクラスメートが誰になるのか、ということは確かに気にはなったけど、それよりもやはりあの人のことが気になる。敦子さんへの返事もちょっと上の空になってしまった。
「あら、笙子さん。元気がないみたい。どうかなさって?」
「え?いえ、ちょっと考え事を…」
「恋煩いですの?」
「そんな訳ないじゃない」
美幸さんの軽口に、苦笑いしながら答えたとき、一瞬だけど強い視線を感じた。その方向に目を向けたけど、そこには植え込みがあるだけ。
「笙子さん、どうかしました?」
「え?いえ、今、誰かに見られていたような気がして…」
「あら嫌だ笙子さん、そちらには誰もいなくってよ。そろそろ行きません?」
美幸さんが言うとおりだ。そこには誰もいないし、誰かがいた気配も無い。気のせいだろう、と自分を納得させる一方、あの視線には覚えがある、知ってる人の視線だった、と確信してるのも、また自分自身だった。
(やばっ…ばれた?)
慌てて首を引っ込める。今、私が潜んでいるのは、マリア像の回りがよく見渡せる茂みの中。私の撮影ポイントの中でも、一・二を争える絶好の場所だ。数ヶ月前、祐巳さんと祥子さまのベストショットをゲットしたのも、この場所だった。
入学式の朝、どこでカメラを構えようかと考えた時、真っ先に思い立ったのもこの場所だった。初々しい新入生の構えない絵が欲しかったから、おのずと姿を隠しての撮影となる。校門脇の茂みという選択肢もありかな、と思ったけど、マリア像の前だと大抵の生徒が立ち止まるし、一番姿を隠しやすい場所でもある。そう考えて、この場所を選んだんだけど…。
(ショウコさん、下級生だったのか…そりゃ見つけられなくて当然だわ…)
バレンタインの宝探しイベント、そこで出会った子が、ファインダーの向こうにいた。ショウコさんと談笑している二人の少女は、確かにあの宝捜しの日、中学の制服を着て、高校の敷地を駆け回っていた少女達だった。
(高校の制服着てたもんなぁ…そりゃ気づかないわよ)
一体どこで制服を手に入れたのかとか、疑問は絶えないが、それはあの写真を渡す時にでも聞いてみればいいだろう。これで、またいつか逢えるということはわかったから。
それにしても、ここから写真を撮っていて、気取られたのは初めてだ。写真を撮られるのが苦手、って言ってたけど、それだけにレンズにも敏感なんだろうか。
(これは…手ごわいわね…)
何が手ごわいのか、冷静に考えてみたらよくわからないけど、何故か、そう思った。
入学式の式典なんて、そんなに面白いものではない。式典の後、新しい教室での連絡事項や注意事項も気がついたら終わっていて、私たちは帰途へとついた。
「ロサ・キネンシス…やっぱり素敵だわ…」
三人で並んでマリア様に手を合わせて、校門の方に向かいつつ、美幸さんが呟く。視線がどこか遠くを向いてるように見えるのは、気のせいだろうか。
「あら、ロサ・フェティダの凛々しい雰囲気も素敵よ」
聞き捨てならぬとばかり、敦子さんもうっとり。私にとってはどちらかというと退屈だった式典も、美幸さんや敦子さんにとっては、憧れの薔薇さま方の姿を見られたということだけで十分に価値があったようだ。
「ね、笙子さんもそう思うでしょ?」
なんて美幸さんに迫られても、やっぱり「綺麗な人だなあ」という感想以上の物は出てこない。
「え?ええ…そ、そうね」
「あら笙子さん、ロサ・フェティダの方が素敵よね?」
「え?ええ、薔薇さま達、皆様素敵よね」
興味がないわけではないけど、お二人ほどの熱意はない。それよりも、私にとっては「あの人」の方が気になるから。
「どうかなさって?笙子さん。朝から心ここにあらず、って感じですわよ」
「え?いえ、別に…」
実際、心はあの人のところへ飛んでいってしまってるようなものだけど、それを今ここで説明することもないだろう。明日からここに通うのだから、今日逢えなくても落胆するほどのことでも無い。そうは思ってみても、やっぱり逢いたい、という気持ちはごまかせない。そんな思いが、きっと態度にも出てしまってるんだろう。
そんな話をしながら歩いていると、校門なんてすぐに着いてしまう。やっぱり今日は逢えなかったか…と思ったその時、あの日聞いた、懐かしいシャッター音が聞こえた。
「…蔦子さま…」
「あは、見つかっちゃった」
見つかっちゃったもなにも、一応木の陰には隠れているようだけど、体もほとんど出ちゃってるし、おおよそ隠れようとしていた様には見えない。
「ごきげんよう、ショウコさん。お久しぶりね」
「はい、ごきげんよう。お久しぶりです」
「同級生だったのね、彼女たちと。入学、おめでとう」
と、美幸さんと敦子さんの方を見て軽くウィンクする蔦子さま。そう言えばあの時、この二人もファインダーの中を駆け回っていたっけ。
「えっ…まさか、あの武嶋…蔦子さま…?」
「お見知り置きとは、光栄です。二年松組、武嶋蔦子です、よろしく」
「えっと…お名前はかねがね…」
薔薇さまたちとは違うけど、蔦子さまも有名人。私たちが密かに愛読していたリリアンかわら版を彩る多くの写真を撮ってきた人物が目の前に現れたとなると、驚くのも無理はないだろう。
「どういう事ですの?笙子さん」
「一体いつ、蔦子さまとお知り合いになられたの?」
蔦子さまを気にしながらも、小声で私に迫ってくる二人。ちょっと腰が引けている私を見て、蔦子さまが助け舟を出してくれた。
「ごめんなさいね、驚かせてしまって。ショウコさんとは、バレンタインの宝捜しの時に知り合ったのよ」
「そうだったんですか…」
「あ、そうそう。その時の写真よ。よかったら受け取って」
と、美幸さんと敦子さんに差し出されたのは、まだ中学の制服を着て、高校の構内を駆け回っている写真だった。
「え…いつのまに…」
噂にしか聞いていなかった隠し撮りを、入学する前から体験してしまって、もう驚くしかない美幸さん。
「あ…ありがとうございます」
それでも、ちゃんとお礼の言葉が出てきた敦子さん。ちょっと羨ましいな…なんて思って見ていると、蔦子さまがそっと耳打ちをしてきた。
(あなたの写真もあるんだけど、あなた一人の時に渡したいわ。よかったら明日の昼休み、写真部の部室に来て)
そのお誘いは、まるでデートのお誘いのように、私の胸の中で響いた。
「蔦子さん、早くも妹ゲットですか?」
まったく、どこから見てたんだか。ショウコさんとの再会を果たしたその次の日には、すでに新聞部の次期部長、山口真美さんの知るところになっていた。
「まったく…耳が早いわね」
早いなんてもんじゃない。昨日の今日で、一体どこから情報を仕入れてきたんだか。
「お褒めに預かり、光栄です。で、どうなの?実際のところ」
席の主が不在なのをいいことに、前の席に座ってすっかり「事情聴取」体制だ。
「どうもこうも。まだフルネームすら知らないわよ」
事実、私は「ショウコ」という名前しか知らない。妹がどうの、といわれても答えようがないではないか。
「一年椿組、内藤笙子。中学もリリアン。昨年卒業された、内藤克美さまの実の妹。とりあえずは、こんなところね」
「へぇ…そうだったんだ…」
なるほど。それであの時、高校の制服を着て、しかも克美さまと一緒にチョコレートを食べていたわけだ。
「え?本当に何も知らなかったの?」
「そんなことで嘘をついてどうするのよ」
苦笑いするしかない私を見て、真美さんは心底意外そうな顔をする。
「じゃあ一体いつ、どうやって知り合ったのよ…私はてっきり前々から目をつけていたのかと…」
「まぁ、前々から気にしていた、というのは事実ね」
かいつまんで事情を説明する。別に隠すほどのことでもないし、真美さんの前で下手な隠し事はかえって危険だ。
「なるほど…そういうことだったの…。でも、蔦子さんって、時々抜けてるわよね」
そんなに笑わなくてもいいのに、豪快に笑ってくれる真美さん。
「余計なお世話よ」
自分でもそう思う。でも、もしあの時学年やクラスを聞いていたら、彼女はどう答えたんだろうか。
「まあ、彼女に限らず、妹をお持ちになる時には、是非とも取材させてよね」
「ご期待には添えそうもないわね」
私の頬をつついて、自分の席へ戻っていく真美さん。その背中を見ながら、自分の隣にいる笙子さんを、想像してみた。
(……やっぱり、しっくりこないわよね)
待ち望んでいた再会の翌日、四時間目の終わりを告げるチャイムを私は半ば、夢見心地で聞いていた。
「笙子さん、お昼、どうします?」
そんな私を、現に引き戻すように美幸さんと敦子さんがやってきた。
「えっと…私はちょっと用事が…」
正直に答えようかとも思ったけど、やっぱりちょっと恥ずかしい。曖昧にごまかしてしまったけど、結局二人にはバレバレのようだった。
「まぁ…早速ですか?」
「私たち、応援していますわ」
「え…いや、別にそういうわけじゃ…」
なんて否定してみるけど、とかくこういう話は外野のほうが盛り上がりがち。お二人の頭の中では、私と蔦子さまはすでにスールになってしまっているようだ。
(そりゃ、私だってそうなりたいけど…)
私そっちのけで盛り上がるお二人を置いて、教室を出る。そんな事を言ったら、あの人はどんな顔をするだろうか。淡い期待を胸に、私は写真部室へと足を進める。昼休みのクラブハウスというのは思っていたよりも人気がない。やがて、「写真部」とかかれたプレートのドアを見つけ、前に立つ。高鳴る胸の鼓動を抑えようと一つ深呼吸をして、ドアをノックした。
部室に入って程なく、ドアをノックする音が聞こえた。わざわざドアをノックするような人なんて、部外者くらいしかいない。どうぞ、と声をかけると、遠慮がちにドアが開き、果たして笙子ちゃんが入ってきた。
「ごきげんよう、蔦子さま」
「ごきげんよう、早かったわね。散らかってるけど、入って」
来るとしても、昼食を取った後だと思っていただけに、ちょっと意外だった。物珍しそうに部室を見渡している笙子さん。
「まぁ、座って…あ、いや、それとも中庭にでも出る?」
見ると、笙子ちゃんはお弁当箱を持っている。私もまだお昼を食べてないので、一緒に食べればいいのだが、この部室は、食事をするのにふさわしい場所とは言いがたい。でも、笙子ちゃんはにっこり笑って首を横に振った。
「いえ、ここがいいです」
…ちょっと、ドキッとした。フィルムに焼き付けられないのが惜しまれる。
「…どうか、なさいましたか?」
「え?あ、いや、なんでもない。じゃあ、お昼にしようか」
私も椅子を持ってきて、笙子さんの向かいに座った。
「改めて、高校進学おめでとう、内藤笙子さん」
「ありがとうございます、蔦子さ…って、私、苗字言ってましたっけ?」
怪訝そうな顔をする笙子さんに、苦笑いしながら種明かしをした。
「実は、おせっかいなクラスメートが、教えてくれてね。まったく、どこでそんな情報仕入れてきたんだか。でも、まさか克美さまの実の妹さんだったとは、思わなかったわ」
そう言いながら、あの時の写真を机に出した。
「はい。昨日言ってた写真。いい表情だと思うんだけど」
「あ…この写真…」
「これも、悪くはないけれど、やっぱりこっちの方がいい表情よね」
昨日、マリア像の前で撮った写真を一緒に並べて、笙子さんの表情をうかがうと、ちょっと驚いた様子だったけど、すぐに飛び切りの笑顔で答えてくれた。
「あ、ありがとうございます!この写真、頂いてもいいですか?」
「もちろん。そのために撮ったようなものだし。もしよかったら、学園祭のパネル展示に使わせてくれない?」
「えっ?そ、そんな、恥ずかしいですし、お姉ちゃんがなんて言うか…」
「はは、冗談半分よ」
「じゃあ、半分は本気なんですか?」
「さぁ、どうかしらね」
一緒に昼食を取りながら、そんなたわいもない話で盛り上がる。今まで、学年の違う人と昼食なんて食べたことがなかったから、かなり新鮮だった。
「今日はありがとうございました、蔦子さま」
「ううん、私も楽しかったし」
「えっと…また時々来ていいですか?」
「いいけど、いつもここにいるとは限らないわよ?それでよければ」
「はい!」
「蔦子さま」と呼ばれるのがちょっと新鮮だ。これが「スール」というものなんだとしたら、なるほどそれもありなのかなと、ちょっと、思った。
晩御飯も終わったあと、リビングでデザートを食べている時、姉の顔と蔦子さまの顔がふいにかぶり、思わず尋ねてしまった。
「ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃんって、スールはいなかったんだよね」
「うん。それがどうかしたの?」
「いや…どうしてスールを持たなかったのかな、って、思って」
別に顔が似ているわけでもない。雰囲気だって似てない。そう、それでも私の姉と、蔦子さまには共通点があった。
「興味なかったから」
…予想通りの答えだった。私の「実の姉」は、そういう人である。
「やっぱり…」
「やっぱりって何よ。失礼ね」
と、ちょっと怒ったように言う姉だけど、本心から怒っていないのはわかる。
「お姉ちゃんみたいに、スールがいない人って、多かったの?」
「そうねぇ…三年間、姉も妹もなし、という人は、そんなに多くはなかったわね。どうしたの?気になる『お姉さま』でも見つかった?」
と、悪戯っぽく笑う。
「えっ…。そ、そういうわけじゃ…」
そう?と、それ以上深追いはしてこなかった。でも、もしその「気になる人」が、「武嶋蔦子さま」である、と知ったら、果たしてどんな顔をするだろうか。
「お姉ちゃんみたいにスールを持たなかった人って、みんなそうなのかな…」
私が、蔦子さまを思い浮かべながらつぶやくと
「私だって本当に興味がなかったわけじゃないわよ」
なんて、意外なことを言い出す。そう言いながら、遠くを見ているような目をしていた。
「あの頃の私は勉強勉強一筋だったから、そういうことに対してすごく冷やかな目で見ていたのは事実。でも、本当の理由はそれじゃない」
そこでふと言葉を切り、モンブランの上の栗にフォークを突き刺し、口に放り込んだ。
「私には、ずっと見ていた人がいたから」
そう言った姉の憂いを含んだ表情は、妹の目から見てもドキッとするほど、綺麗だった。でも、どうしてその人とスールの契りを結ばなかったのだろう
「ただ…同級生とは、スールにはなれないのよね」
私の疑問を読み取ったかのように、昔を懐かしむような、遠くを見るような表情のまま、淋しそうに笑いながら続けた。
「ま、私みたいなパターンは少ないと思うけどね。部活やサークル活動をまったくやってなくて、上下の接点がまるでないとか、そういう理由が多いんじゃないかしら?」
あの人は、どうして姉を持たないのだろう。妹は持たないのだろうか。姉の話を聞きながら、心が少し、揺れた。
「もうロザリオは用意したの?」
放課後教室を出ようとすると、真美さんに呼び止められた。
「だから…なんでそうなるのよ」
苦笑いしながらそのまま教室を出て行くと、真美さんは当たり前のようについてきた。
「あら、備えあれば憂いなし、って言うじゃない。いざ、というときに渡すべきロザリオがないっていうのは、格好つかないわよ。蔦子さん、お姉さまもいらっしゃらないわけだし」
「まったく…そういうのじゃないって。それに、私みたいな一般生徒にかまわなくても、祐巳さんや由乃さんがいるじゃない」
と、クラスメートの名前をあげてみると、意外な答えが返ってきた。
「何言ってるの。今、新聞部で一番熱い話題は蔦子さんなのよ?」
「はぁ?」
「蔦子さんって、結構有名人なのよ?多分、薔薇さま達や『その一家』の次、くらいにね」
「それは、光栄ね」
あれだけカメラ持って駆け回っていれば有名にもなってしまうか。でも、有名という点では、真美さんも言うほど変わらないはず。
「でも、そういうなら真美さんだって有名人じゃない。なんたって、『期待の次期新聞部部長殿』なんだし」
なんて軽いジャブを打ってみても、真美さんは笑ってあっさりとかわしてしまった。
「何言ってるの。私よりもお姉さまのほうがずっと有名よ」
「…それもそうか」
確かに、真美さんのお姉さま、三奈子さまは去年の「黄薔薇革命」騒動や「イエローローズ」騒動で名前をとどろかせてしまった。
「でも、薔薇さま並に有名なお姉さまをもつ真美さんだって、多少は名前が売れてるのではなくて?」
「私の場合、お姉さまの方が目立ちすぎなのよね…。おかげで、私は陰に隠れて全然目立たない。めでたしめでたし」
何がめでたいんだかよくわからないけど、そういって真美さんは笑うだけだ。私は苦笑いするしかない。
「それって、めでたいことなの?」
「変に目立つよりはいいわよ。とにかく、私にはすでにお姉さまがいるのよ。スールがいない蔦子さんが、特定の下級生と親しくしている、だからホットなのよ」
…それって、絶対新聞部内だけでの話だと思う。いくら私が有名でも、私個人に興味がある生徒なんてほとんどいないだろう。そう、ほとんど。
「まったく…。ブゥトンでもない一生徒の動向に一喜一憂なんて、こんなところで油を売っていてもいいの?次期新聞部部長さん」
「新聞部員としても、一クラスメートとしても、大いに気になるところね。じゃあね、頑張って」
まったく、何を頑張れというのか。気がついたらそこは部室の前。真美さんは新聞部室のドアに吸い込まれていった。私も写真部室のドアを開け、現像液の香り漂う空間へと身を滑らせる。いつものように、私一人しかいない。そのまま暗室の中に入り、早速今日の収穫を現像する。印画紙に、ファインダー越しに切り取った瞬間が浮かび上がってくる。祐巳さん、由乃さん、志摩子さん、祥子さま、令さま、クラスメート、名前も知らない沢山の一般生徒、そして…
(笙子ちゃん、か…)
綺麗な子だと思う。自分を慕ってくれるのは嬉しい。だからといって、スールなんてことを言われても、ピンと来ない。
「妹かぁ…」
像を現した笙子ちゃんの写真をピンセットでつまんでつぶやく。そのつぶやきに、答える声は無い。私は一人、暗室の赤い光に包まれていた。
「え?どうしてスールを持たないのか、って?」
高校で再会して以来、時々蔦子さまと一緒にお昼を食べたりする。いつかの姉との会話を思い出し、私は蔦子さまに直接尋ねてみた。
「そうね……。私にとっては、この学校の生徒全員が、大事な存在なのよ。その中から、一人だけ特別な存在を選ぶ、というのは中々難しいことね」
「では、もしスールを選ぶとすれば、どんな人を?」
そんなことを聞いてどうするつもりなのか、自分でもよくわからない。でも、気がついたらそんな質問が口をついて出ていた。
「そうね…あんまり考えたことなかったけど…その人の写真しか撮りたくない、そんな人か、もしくは、この人に私の写真を撮ってもらいたい、そう思える人…かな」
そう言って、蔦子さまはふっと笑った。
そんなささやかなランデブーも、昼休みの終わりを告げる予鈴には勝てない。急かされるように教室に戻ると、美幸さんと敦子さんがなにやら興奮した様子で話していた。
「どうなさったの?美幸さん、敦子さん」
振り返った美幸さんの胸元には、銀色に輝く十字架がかかっていた。
「あ…美幸さん、それ…」
「ええ、そうなの。お昼休みに、千歌子さまから頂いたの」
「なんか、先を越されて負けた気分ですわ」
同じサークルというだけあって、敦子さんの心境も穏やかならざるものがあるのだろう。
「その点、笙子さんはいいですわね」
「え?」
「競争相手もいらっしゃらないようですし…もうロザリオは頂きましたの?」
敦子さんと美幸さんは、もうすっかり私と蔦子さまがスールになるものと決めてしまっているようだ。そう言えば前にも「応援する」なんてことを言われたっけ。
「別に、私、そんなつもりじゃ…」
「え?じゃあ、他に気になるお姉さまがいらっしゃるの?」
掴みかかってきそうな勢いで敦子さんが迫ってくる。美幸さんに先を越されて焦っているんだろうか。
「お、落ち着いて敦子さん…そんな方いらっしゃらないわよ…」
二人と違ってサークルやクラブに入っていない私に、そんな出会いがあるわけが無い。
「笙子さんは、蔦子さまからロザリオを頂きたくないんですの?」
「それは…もちろん…」
「やっぱりそうですわよね。私たち、応援してますからね」
折りしも午後の授業開始を告げるチャイムがなり、二人はそれぞれの席へ戻っていく。
五時間目の国語の授業は、決して苦手な科目ではないけれど、授業の内容は私の頭の中には入ってこなかった。頭の中で美幸さんと敦子さんの言葉が駆け巡る。美幸さんが、「お姉さま」から頂いたというロザリオの輝きが、脳裏をよぎる。蔦子さまの視線を、声を、笑顔を、ずっと感じていたい。その思いは、日に日に強くなっている。蔦子さまが覗くレンズの前でなら、自然と笑顔が出るようにもなった。もし、蔦子さまからロザリオを差し出されたなら迷わず受け取れる。でも蔦子さまはどう思ってらっしゃるんだろう。私と、蔦子さまの間に絆は存在しているのだろうか。今まで余り考えたことがなかったけど、「ロザリオ」という、形ある物の重さがわかったような気がした。
いつもと同じ朝。自分の席に座り、そっとポケットの中にある「それ」に触れる。どうしてこれが私のポケットに入っているのか、さっぱりわからない。
(なんか、真美さんに上手く乗せられてしまったような感じだわ…)
真美さんに「いざという時にないと格好つかない」なんて言われるまで、ロザリオのことなんて考えたこともなかった。貰う事も、あげる事も。真美さんに言われた時だって、自分には必要のないものだと思っていた。でも、普段は通り過ぎるだけの家の近くのアクセサリー屋、そこで光っている銀の十字架を見たとき、何故か吸い寄せられるようにそれを手にしていた。
「ごきげんよう、蔦子さん」
「ごきげんよう、祐巳さん」
クラスメートの挨拶を聞き、ふと思いついて尋ねてみた。
「ねえ、祐巳さん。祐巳さんにとって、ロザリオって何?」
一応、周りに真美さんがいないことを確認して、それでもちょっと小声で。
「え?何って…何?」
そりゃそうだろう。何の前触れもなくそんな事を言われても、普通なら戸惑うだけだ。
「いや、なんていうのかな…祐巳さんにとって、ロザリオって、どういう意味があるのかな、って」
「うーん…祥子さまとの絆の形…かな…」
首にかかっている鎖に触れながら、答えてくれる。
「やっぱり、大事な物よね」
「それはもちろん…でも、前ほど大事な物、とは思わなくなったかな」
「え?そうなの?」
ちょっと意外な言葉が出てきたので驚いた。祐巳さんは本当に祥子さまが好きだから、その祥子さまから貰ったロザリオの重さが軽くなるなんて、ちょっと信じられない。でも、続いて祐巳さんの口から出てきた言葉で納得した。
「あ、別にロザリオがどうでもよくなった、ってことじゃないよ。ただ、ロザリオは、絆の形ではあったとしても、絆そのものではないって、最近思うようになったから」
「なるほどね」
そういって軽く微笑んだ祐巳さんは、とてもやさしい顔をしている。その表情の向こうには、祥子さまの存在が透けて見えた。
「でも、どうしたの?突然。蔦子さんって、そういうことには興味ないと思ってたんだけど」
「え?ちょっと、ね。ありがとう、祐巳さん」
痛くない腹…いや、この場合、痛い腹かもしれないが、とにかく変に探られてはこちらの心のバランスが崩れかねない。そう思って話を切り上げてしまった。
小さな十字架をめぐって、色んな出逢いが、別れが、そう、ドラマが生まれる。私は、そのドラマの傍観者でありこそすれ、決して主役になることはない、そう思っていた。ましてや、自分がロザリオというものを手にすることになるなんて、考えもしなかった。
そんなに固く考えることじゃないのかもしれない。でも、このロザリオを笙子ちゃんに渡した瞬間、私と彼女の関係は特別なものになる。笙子ちゃんがそれを望んでいるらしいということは気付いている。私も、笙子ちゃんのことを好ましく感じている。でも、今まで特定の生徒と特別な関係になることを避けてきた私にとって、その壁を越えることの意味は決して小さくない。大げさに言うならば、全校生徒と笙子ちゃんを天秤にかけるようなものだ。
「まったく…参ったわね…」
「意味深な呟きですこと」
視線を上げると、果たしてそこには意味深な笑みを浮かべた真美さんが立っていた。全身から「好奇心」という名のオーラが発散されている。
「ま、生きてるってのは、色々とあるってことよ」
今の私に、真美さんの攻撃はちょっと厳しい。なんとかやり過ごそうとするけど、さすがは新聞部のホープ、私のポケットの中身にも気がついていたようだ。
「まぁ、余り難しく考えなくてもいいんじゃなくって?勢いで渡しちゃう、っていうのも一つの手だと思うわよ」
私のポケットに視線を走らせつつ、さらっと言ってくれる。
「簡単に言ってくれるわね…」
「他人事ですから」
さらにあっさりと言ってくれる真美さんには苦笑いの贈り物くらいしかできない。
「真美さんは…」
「え?」
「真美さんはどうなのよ。…いや、どうだったのよ」
何を言っているんだ、私は。第一、他の人の事を聞いたって何の参考にもならないことくらい、わかっているじゃないか。
「どうって…妹のこと?それともお姉さまとのこと?」
「いや…いいわ…」
いいと言ってるのに真美さんは実に的確に答えを返してくる。
「私は、お姉さまはもちろん大事だけど、だからといってお姉さまとの関係と、部活動は別物だと思ってるわ。蔦子さんは、何を怖がってらっしゃるのかしら?」
「…怖がってる?」
「あら、違うのかしら?私はてっきり、それをあの子に渡すことで、何かが変わってしまうことを怖がってるんだと思ったんだけど?」
怖い…そう、それは確かにある。
「んー…どうなんだろう。確かにそれもあるのかもしれないけど…それだけじゃない気もする」
「そう?まぁ、蔦子さんはいつも何でもそつなくこなしちゃうから、たまにはそうやって、歳相応に悩んでみるのもいいと思うわよ?そんな蔦子さんが見せる隙は、そう、とても色っぽい」
「そんなこと言ってる真美さんのほうがよっぽどそつがないわよ」
「誉め言葉だと受け取っておくわ。じゃあ、頑張ってね」
私だってまだ高校二年生。そりゃ悩みもする。自分の席に戻る真美さんの後姿を見ながら、いまだ見えぬトンネルの出口を探していた。
私は蔦子さまの妹じゃない。だから、蔦子さまが誰にカメラを向けようと、とやかく言える立場じゃない。でも、最近蔦子さまが私以外、特に一年生に向かってシャッターを切っているのを見ると、何か胸がざわざわするようになってきた。私のことをどう思って下さっているのか、それをはっきりと確かめるまで、このざわざわはどんどん大きくなっていく。私は、自分の気持ちに決着をつける決心をした。
放課後、写真部を訪ねると、いつも通り蔦子さましかいない。
「ごきげんよう、蔦子さま」
「笙子ちゃん、ごきげんよう…どうしたの?」
挨拶をしたっきり、ドアのところで立ちすくんでいる私を見て、ちょっと戸惑った様子の蔦子さま。いつまでもこうしているわけにはいかない。私は覚悟を決め、俯いていた顔を上げてお願いをした。
「ちょっと、お話があるんです…ついてきてくださいませんか?」
まだ本番じゃないのに、私の心臓はもう破裂寸前だ。ついてきてくれる蔦子さまの足音を感じながら、私はマリア様の元へと足を進めた。
告白だけならどこでも出来る。でも、私はこの場所を選んだ。理由なんてない。もしかしたら無意識に、マリア様にすがっていたのかもしれない。ゆっくりと蔦子さまへと向き直り、ありったけの勇気を振り絞る。
「私を、蔦子さまの妹にしてください」
本当は、こんなことを私から口にするべきではない。そんなことはわかっていたけど、自分の気持ちに嘘をつくことはできない。私は、蔦子さまの口から答えを聞きたかった。
「…ごめん、今はまだ…」
…こうなることはなんとなく予感していた。でも、いくら覚悟していても、その現実を突きつけられると少なからず動揺はする。その動揺は、目からあふれ出る滴という形となって、あふれ出てきた。私はその動揺を、抑えきれなかった。
少し思いつめたような顔をして部室に現れた時から、笙子ちゃんの用件は見当がついていた。前を行く笙子ちゃんは何も言わない。私も、かける言葉も思いつかないまま、私たちはマリア様の前に辿り着いた。
「私を、蔦子さまの妹にしてください」
笙子ちゃんの告白に、ポケットのロザリオが意識される。もしこのロザリオを渡す相手がいるとすれば、目の前の子以外にはありえない。
「…ごめん、今はまだ…」
とは言え、自分の中でまだ決着のついていない問題に、安易な返事なんて出来ない。ロザリオを手にして初めて、「妹を持つ」ということについて真剣に考えた。カメラとロザリオ、その二つをかけた天秤は、ゆらゆれらと揺れたままいつまでも止まろうとしない。例え卑怯と言われようとも、彼女の申し出を受け入れる事も、明確に拒絶することも出来ない。今の私には、あの返事が精一杯だった。
「笙子ちゃん…」
静かにすすり泣いていた笙子ちゃんの肩にそっと手を置くと、そのまま私の胸に顔をうずめ、静かに、静かに涙を流しつづけた。ポケットの中のロザリオが、また少し重く感じられた。
「…申し訳ありません。取り乱してしまいました…」
「うん…いや、本当にごめん」
どれくらい、蔦子さまの腕の中で泣いていたのだろう。それはきっと、一・二分のことだったのだろうけど、私にとってはとても長いようで、でも一瞬で駆け抜けていったような、とても心安らぐ時だった。でも、そこは何時までも私がいていい場所じゃない。私は、ふられたのだから。
「そんな、謝らないで下さい。覚悟はできてましたから」
いつか蔦子さまは言っていた。リリアンの生徒から一人を選ぶことなんてできそうにない、と。でも、私にとっては、蔦子さまはたった一人の、かけがえのない存在。その、二人の思いの間には、大きな溝がある。そんなこと、わかっていた。だからこそ…
「でも、私、諦めませんから。いつかきっと、蔦子さまのNo.1になってみせます」
私はそう言って、涙にサヨナラを告げた。とびっきりの、笑顔で。
了
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