なんちゃって日記もどき拡大版

 まぁ、なんというか、人生何処で何がどう転がるかわかったものではない。今回の一連の大騒動(?)は、誰もが予測をしない展開をたどったのであった…。そんなわけで、この際私の北海道の6年間とともに、この大阪進出騒動を振り返ってみようと思う。

0.そもそも何故北海道?
 私は元来関西の某高校に通っていたわけで、そもそも何故に北海道?という話がある。これにはそう深くない理由があったりなんかする。そう、何を隠そう知る人ぞ知るssk氏に騙くらかされて某H大を受験したのであった。
 高校3年の6月ごろ、私はまだ志望校を決めあぐねていた。第一志望はK大理学部だが、今の学力じゃ夢のまた夢、O大理学部ならなんとかなりそうだがどうも雰囲気が気に入らない、KB大はそも文系の大学だから理系の学科はお話にならないし、そも、鉄道研究会が存在しない…と、いうような感じで、一応国立を目指している身としてはなんともかんとも微妙な状況だったのである。そこに、sskが私に「H大はいいぞ〜いいぞ〜いいぞ〜」と吹き込み(しかも学校からの帰宅途中、立ち読みなんぞに興じているときに)、私もなんとなくその気になってしまい、そのままH大を受けることに相成ったのであった。ちなみに、その前日に、母親から「H大なんてどうなの?」と聞かれたが、何も考えずに「え?いくらなんでも北海道まで出て行くわけにはいかんっしょや?(当時は関西弁だったはずだがすでに記憶にないのでなぜか北海道弁で)」と答えていたのはまさにギャグとしかいいようがない。母に「やっぱH大受けるわ」といったときの母の反応は、まぁ、皆様のご想像どおり、であろう。

1.そして札幌へ
 そんなこんなで、センター試験も済み、2次試験を受けるべく生まれて初めて冬の北海道へ足を運んだわけだが…第一印象は…
「こんなとこで生活できるかぁ!!」
であった(苦笑。まぁ、いたしかたないというか、この年の札幌は記録的な豪雪で例年になく雪が多い年であったせいもあり、雪なんてものは積もることのほうが珍しい地区で18年間生活していた人間としてはもはや人知を超えたモノとして映ったのであった。このときすでに自分の選択を後悔していたりしたのだが、それが数年後にはまったく逆の感情を抱くことになろうとは、当然この時は予想だにしていなかった。そんな後悔をよそに、2次試験はほとんど壊滅的な点数だったにもかかわらずセンター試験の成績だけでH大に無事合格、こうして私の札幌生活、そして初めての一人暮らしが始まったのであった。

2.裏次郎、誕生
 話がやや前後するが、私が今のアニメだのゲームだのの世界に足を突っ込むきっかけとなったエヴァンゲリオン、こいつにはまったのが年の瀬も押し迫った1995年12月、高校3年生の時であった。危うくこのせいで大学受験に失敗しそうになったのだが、まあそれはそれとして、受験やら体面やらの関係ではまっていた事を親に隠していたのが一人暮らしになったことにより親の目を気にする必要がなくなり、そっち方面に一気にのめりこんでいったのが、ちょうど大学に入った後、ということになる。「そっち方面」とは言うものの、このころはまだEVAしか知らず、ほとんど妄信的にEVA道を突っ走っていたのだが、そんな大学1年の6月か7月ごろ、大学の友人に誘われてはじめて触れたのが「チャット」であった。いいのか悪いのかよくわからないが、今の私を語るのにこの「チャット」というものの存在はかなり大きな要素を占めているとは否めない。このとき初めていったチャットが、「伊吹マヤのホームページ」のチャット、通称「マヤチャ」であった。ちなみに、すでにかなりの年月が経つが、いまだにチャット自身は残っている。寂れきってはいるが。このとき、何の考えもなく、適当に同じくその時はまっていたライトノベルの「ザンヤルマの剣士」の登場人物から取ったHNが、今のHN兼PN兼第二の人格(?)こと「裏次郎」であった。思えばこの名前も長いものである。今までの中で一度だけHNを変えようと思い、実際別のHNを名乗ってみたが、結局その名前も1日しかもたず、すぐに元の「裏次郎」に戻ってしまった。おそらく今後もよほどのことがない限り変えることはないだろう。ちなみに、「カロ・ウラージェロ」や「カーロフ・ウラジェロスキー」といったものは、原典の小説の中での「裏次郎」の別名(厳密にいうと前者は本名だが)なので、基本的に裏次郎と同義、ということになる。詳しくは富士見ファンタジア文庫「ザンヤルマの剣士」シリーズ(麻生俊平著)をご参照いただきたい。何はともあれ、これが「裏次郎」誕生の瞬間であり、以降今までにいたるまで私の「もう一人の人格」として、おそらくこれを読んでいらっしゃるであろう大半の皆様に愛され、憎まれ、かまっていただき、ほったらかされて、引っこ抜かれて、食べられてきたわけである。

3.裏次郎、闊歩する
 大学2年あたりからだんだんとEVAから女神さまっやらなんやらかんやらを経て、いろいろな方向に手を伸ばしだしていったわけで、そんなさなかパソコンを購入したのが大学3年の夏、’98年7月頃の話であった。当時、こんなハイスペックマシンで何をするの?といわれたマシンもいまやFDDとサウンドカードしか残っていないという状況ではあるが、彼は大学のレポート作成から初期のゲームまで、いろいろとこなしてくれたナイスガイであった(もっとも、キーボード、モニタ、プリンタはいまだに初代のままである。彼らは愛着とともに使いやすさも抜群なのでともかくもぶっつぶれないことを祈るのみである)。それはさておき、当然パソコンを買うとそっち系に走っていくのはこれはもう止めようのない流れであり、この頃、正確にはこの後年明け以降、一気にアニメからパソゲーへと活動範囲が拡大、裏次郎全盛期(?)を迎えるわけである。
 また話が前後するが、意外にというかなんと言うか、私はコミケに逝った回数はそんなに多くない。まだ4回程度しか逝ってないのだが、コミケ初参加となったのがちょうどこの少し前、大学1年の冬コミのことであった。当時は当然のようにEVAが席巻していた時代で私もそれ目当てにコミケに逝ったのであったが、初参加でいきなり朝の6時から並ぶという、微妙にハードなことをやってのけたり、お目当ての本がEVAの批評本だったりと、当時からいきなりすっ飛ばしたことをやっていたものだと今になって懐かしく思い出す。また、この次のコミケでは早くも(?)サークル参加を経験、EVAのコピー本を親友K氏(彼は私をEVAにはめた張本人でもある)とその他同志たちとともに作り上げ、コミケで売っていたのも今となってはすでに懐かしい昔の話である。その後、しばらくコミケには逝ってなかったのだが、久々にコミケ復活を果たしたのが、その1年半後の冬コミ、私が大学4年の冬だった。

4.ネットへの復活
 大学4年のとき、この年が私にとってかなり大きな転機となったのは間違いない。無論、大学を決めた時点、高校を決めた時点、そも、中学入試という選択した段階も大きな段階ではあったが、この年のいろいろな出来事はこの後の人生にとって相当大きな影と光を落としている。
 まずは「裏次郎」のネットへの復活ともいうべきチャットへの復活、そう、想雪館との出会いである。これ以前、私はしばらくチャットから遠ざかっていた。いろいろな要素が絡んでマヤチャも閑散としていたのも手伝い、また自室ではネットができなかったことや大学でもネット端末をいじる機会も減っていたのもあり、チャットどころかネット自体から遠ざかっていたのである。それが、4年生になって配属された講座のすぐそばに端末室があったことがまず大きな要素となった。講座分属から約2ヵ月後の6月に「Kanon」が発売されるにいたり、裏次郎のネット熱が復活、その中でさまよってるうちにぶち当たったのが、そう想雪館だったのである。元来、裏次郎はいわずと知れた(?)まこぴーらヴりー人間であり、それが何故名雪ファンクラブのチャットにいついてしまったのか、ということに関してはいまさら検証する必要もないというか、結局あそこのチャットの雰囲気にすんなりと吸い込まれてしまった、というただそれだけのことであったのである。今の裏次郎のオンライン関係の友人(というか、裏次郎の友人=オンライン、私(誰)の友人=オフライン、という感じではあるが)はほぼ100%ここ関係であり、なおかついずれもかなり長い付き合いになっていることからもいかに裏次郎の感性にジャスフィットしていたかということが伺える。そして、後に一部で裏次郎が「ヌシ」とまで言われた「鳥チャ」ができたのもこの少し後の時期であった。裏次郎の暗躍の場所も想雪館(というかなゆチャ)から鳥チャへとシフトしていったのである。
 思えばすでにこの頃が最後の華だったというか、このあたりから暗雲が立ち込めてきたというか、そんな感じの時期であった。チャット上でのちょっとした(といってしまっていいのか微妙ではあるが)揉め事や、卒論研究の停滞とそれに伴っての意としない研究テーマへの強制的な変更、大学院進学への意欲低下とそれに伴う当然の結果としての入試不合格、うまくいかない就職活動、そして退学……

5.人生3度目の谷底
 先の章でも書いたとおり、卒論研究のテーマが変わってしまい、元々興味があったテーマからまったく興味が湧かないテーマとなり、自分の中で意欲も急降下、間の悪いことに実験器具もぶっ壊れてこっちも研究が進まない、そもそも半年で何の結果を出せっちゅーんじゃとか思ってみるものの元々のテーマだって確かに結果が出てなかったわけであり、例えテーマが変わっていなくても結果は同じだったのかもしれないが…とか思っているうちに気が付いたら卒論の締め切りもすぐそこ、これで卒業なんてできるのかと自分でもいぶかしんでいたらある日教授からの呼び出し…
教授:「こんな研究結果じゃ卒業させることはできませんよ」
私:「……そうですか。わかりました。…自分の中で決めていたんですが、今、これ以上この研究を続けていても、結局自分の興味のないことですし、結果は出せないと思うんです。だから、もし卒業できないのなら、大学を辞めようと」
おおむねこのようなやり取りが交わされたように記憶している。周りからは散々勿体無いといわれ、オフラインの親友はかなり怒っていたようだが、これは自分の決めた道とばっかりに思い込んだら一直線根性丸出しで誰にも相談せず(一応、親には事前にそういう可能性もほのめかしてはいたが)ちゃっちゃと退学という決定を下してしまったのであった。このときのこの選択が正しかったのか否か、なんてことははっきり言ってわからないし、多分死ぬときまでわからない、いや、下手したら死んでもわからないだろう。そも、正しい正しくないの問題ではないのかもしれない。客観的に見たら随分とお馬鹿な選択に映ることは重々承知している。そして随分と自分勝手な振る舞いだったとは思う。それでも、私はあのときに下した判断はあの時点では最善だったと思っているし、後悔もしてない。例え後悔していたとしても後悔してるなんで死んでも言わない。まぁ、いずれにしてもそこそこ大きな十字架を背負い込んだことには違いなく、この十字架に1年間つぶされそうになっていたのは紛れもない事実ではあった。もっとも、多分に自滅の感が強かったが。
 そんなわけで、退学という選択をしてからの1年間は実に無残な(?)年となっていた。ほとんどヒッキー寸前までいってた気がする。かろうじてネットの世界とつながっていたからよかったようなものの、それすらなかったらおそらく今ごろどこかで朽ち果ててしまっていたであろう。それくらい駄目駄目生活だった。バイトすらせず親からの仕送りで無為に過ごす生活(一応、6月一月だけは臨時のバイトで月288時間労働という怒涛の生活を送っていたが)。生きている意味も見出せずさりとて死ぬほどの勇気もなくただ無為に死なないから生きているだけの生活。今思い出すだけでもぞっとする。人間こういう時はえてして思考回路もマイナスマイナスになっていくもので、自殺を考えたことも一度や二度じゃなかった。それでも生きていたのはひとえに私の支えとなってくれた友人達のおかげである。今こそ深く感謝したい。そして、その一方的だった思いをぶつけてしまってご迷惑をかけた某氏には、返す返すも申し訳なく、今でも付き合ってくださってることに関してはもうお礼の言葉もないくらい感謝しているのである。
 もっとも、こんな生活を続けていては駄目だ、という認識はあったわけで、無為に過ごす時を連ねるにつけその思いも強くなり、ようやく重い腰を上げたのが年も明けた2月末のことだった。

6.事態、好転?
 今思うとよくもまぁあんな胡散臭いチラシに電話をかけてみようと思ったものだが、初めての職場は、実は部屋の郵便ポストに入っていた一枚のチラシがきっかけだった。ベンチャー関係の(この言い回し自体、かなりの胡散臭さを感じるが)企業を立ち上げるにあたってのスタッフ募集、ということでこれなら学歴もクソも関係ないんじゃないか、と自分なりの打算が働いて、電話をしてみたというのがそもそもの始まりだった。結局、その計算は見事にあたり、無事採用ということになったのだが、結局業務内容は家庭教師派遣業の立ち上げという、おおよそ自分の感性とは正反対に近いような内容だったのは不幸だったのか幸いだったのか。私は大学時代カテキョーのバイトをやったこともなければ実際にカテキョーに教えてもらった経験もない。そして、勉強なんて大嫌いだったし今の学歴社会(いくら崩壊したとはいえ、まだまだこの世は学歴社会である)にもかなりの疑問を感じている。そもそも大学を中退している。そんな私がカテキョー派遣業とは…。実に皮肉な組み合わせであった。古い歌にもあるが
「家庭教師の柄じゃない 金のためだといいながら 子供相手に人の道 人生などを説く男」
である。別に私自身が実際に教えるわけじゃないが。でも、実際人生を説いたこともあった。いったい何様のつもりだったのだろうか(苦笑)。
 家庭教師派遣業の仕事ってのは結局何をしていたのかというと、ご家庭にお邪魔して家庭教師派遣の契約を取ってくる、その家庭へ派遣する教師を決める、派遣した後のフォロー、というのが主な仕事であって、その他に教師集め、受験資料などの作成、その他諸々諸々、といった感じであった。基本的に嘘をつくのが苦手で嫌いな私にとって(端から見ててそう見えるかどうかはわからないが、私は親の教育の甲斐あって嘘をつくということに対して非常に強い罪悪感を持っている)、カテキョーの契約を取ってくるという、いわゆる「営業」の仕事はあまりにも負担が大きく(経験のある方ならわかるだろうが、「営業」の仕事はある程度嘘をつけないとやっていけない)、自分自身がカテキョーの経験もないのでフォローだってどうすればいいのかよくわからない、仕事の時間も14時〜22・3時とかそれ以降という不規則不健康な生活、会社自体も先がまったく見えない、休みの日も呼び出されることも少なくない、そして給料も安い……。そんな生活を送っていた私の、日々の酒の量が増えていったのは、これはもう避けようのない事態であっただろう。そんな生活を5ヶ月ほど続けていた7月末のある日、朝から3件契約に回って1保留(要するに契約を取れなかった、ということ)2未指解(未指導解約の意、契約が取れたかと思いきや指導に入る前に解約になってしまったケース)という無残な結果に終わった日の夜、代表との会談が行われたのであった。
 そのときの会談の内容はあまり記憶に残ってない。何故なら、会談の後、場所を移した2次会でしこたま酒を飲み、これ以上ないくらいに前後不覚に酔っ払い、その前の記憶まであやふやになってしまったからである。ちなみに、どの位の酔い方かというと、記憶が飛んだのはおろか、話によるとオートリバース(専門用語)がかかって、しかもトイレで一人でぶっ倒れていた上に同僚に担がれてマンションまで帰ってきて、そのマンションの玄関先でもまたリバースしてしまって、当然のように3日酔いになるくらいという、今まででも1・2を争える位のひどい酔っ払い方であった。3日酔いというのは今までも何回かあるが、翌日の夜までまともに動けなかった、というのは後にも先にもこのときだけである。で、何をここまで酔っ払ったかというと、このときに代表との話し合いで「辞職」を正式に告げたせいであった。当時はまだ人手不足の感もあり、また、私のことを心配してくれていたのもあったのだろうが、相手も引きとめようとする言葉を多々吐いてきた。だが、こちらとしてもこれ以上続けていたら肉体的にも精神的にも破綻をきたしかねないレベルまで来ていた面もあり、一歩も引けない。故に、あることないこと並び立て、それこそ「嘘」もついて追撃を振り切ったのであった。その時、私が彼の人に切った啖呵が
「私の生きがいは趣味、特に鉄道模型です。それがまともにできないような生活なんて生きてる意味がありません」
という奴である。別にこの啖呵が決め手になったわけではないだろうが、この啖呵は相手を驚愕せしめるに十分だったらしい。彼の人の認識が決して特殊なわけではなく、一般的に「こういう言葉を吐く人間=ヲタク=社会不適格者」という等式が成り立つらしく、その「社会不適格者」の私が今まで曲がりなりにも営業の業務をこなし、一般社会においてまともな社会生活を送れていたのがかなりの驚きだったらしい。まぁ、その辺が私のモットーであるところの「社会性のあるヲタクライフ」の真骨頂(?)ではあるのだが。こうして、1ヵ月後の8月末をめどに仕事を辞めることになったのであった。

7.流転の始まり
 辞めるという話をしていたとき、「辞めた後どうするんだ?」ということも当然聞かれた。そこで私が「コンビニバイトでも何でも、生きてければそれでいい」ってなことを言い切ってしまったのもまた相手をあきれさせた要因だったのだが、実際私自身は模型をいじって生きていけるのなら別に何でもいいと思っていたし、今でもそう思っている。ただ、できればある程度安定した収入や立場というのは欲しいが。このとき言ったコンビニバイトというのは、まぁモノの例えというか、別にコンビニバイトがやりたかったわけでは当然なく、できることなら自分の興味ある分野の仕事に就けるのならそれに越したことはないと考えていた。おりしも、某鉄道模型ショップが販売スタッフを募集しているのをHPでみて、応募してみたもののぎりぎりのタイミングで間に合わず、さぁやれ困ったぞ、と思っていたそんなとき、市内の某パソコンショップで店員を募集しているのを見つけたのが、まぁ、今思えば結局大阪まで出てくる羽目になった遠因といえるかもしれない。
 そのショップで求めていた人材というのが、結局のところはパソコン自作経験者。当時の私は、確かに自作の経験はあるがかなり偏った経験と知識しかない人間。面接でその辺の細かい部分を突っつかれたらぼろが出ることは明白だったがそこはそれ、いつのまにか身についていた「しゃべくり」の技術でいとも簡単に潜り抜け、あっさりと採用が決まってしまったのであった。面接とは何の場所か。もちろん、相手がこちらを選別する場所ということになるのだが、こっちからしてみれば「自分」という「商品」を売り込むための場所とも言えるわけで、商品を売り込むというのは結局この半年間ほどやってきた「営業」の作業そのものだったわけである。思わぬところで思わぬものが生きてきたということになったわけで、人間無駄な経験なんてないんだな、と思った次第であった。同時にもう一人面接に来ていたのだが、彼を見て不遜にも「あ、こいつはバイトの経験とかないな。こいつとの二者択一ならぜってぇわすぃが選ばれるべや」とか思ってみたりするほど余裕しゃくしゃくだったのである。まぁ、半年前までは考えられないことだった。人間変われば変わるものである。ちなみに、そのもう一人のほうも結局採用となったのだが(最初から2人入れる予定だったらしい)、彼は3日後に諸般の事情で店を去ったのであった。
 私が新しく入った店は、パーツ専門店(某パラダイスや某工房など)とパソコン量販店(某ドバシや某カメラなど)を足して2で割ったような店で、1階が本体やサプライ系、2階がパーツ系という形態になっていて、私はその2階の担当として採用されたのだった。よもや、入って2日目でレジを打ち、3日目にはなぜか見積もりを取り、4日目にはマシンを組んでいることになろうとは思ってもいなかったが。私自身も客として何度も足を運んでいた店ではあるが、客としてみた場合、正直パーツ系の店としては「使えない」店、だった(そんな店で働こうなんて考える自分も自分だが)。基本的に物が高いし、品揃えもあまりよくないのである。まぁ、入ってみてわかったが、それもまた当然のシステムだったのだが。仕入れ筋がしょぼいのと値付システムの不備がダブルできいてきてる結果で、これじゃ確かに高くもなるし品揃えもよくねぇな、ってか、よくもまぁこれだけしょぼい仕入れ筋で今までよくも商品を回していたな、と主要パーツ仕入れ担当のIさんには尊敬の念すら抱いた。3ヶ月ほどたったらCPU・メモリ・HDD・マザーボードの仕入れ担当補佐をやるようになったが、ますますその苦労が窺い知れ、ほとほと上の阿呆さ加減にはあきれる毎日が続いていたのであった。大体、なんで個人ショップでもない店の店員がメーカーや代理店に直接発注をかけなきゃならんのだ、と今になって思ったりするのである。おまけに新製品は全然入ってこない、挙句の果てにはメモリすらまともに入ってこないような状況、これは早晩破綻をきたすな、と思っていたら案の定運命の日がやってきたのであった。

8.そして大阪へ
 年の暮れも押し迫った2001年12月28日、社員(店には社員・契約社員・バイトの3種類の人間が働いていて、その中の社員のみに対して)宛に一つの通告がなされた。そう、最後通牒である。今年度一杯をめどに業態変更を行う、という内容であった。要するに、規模を縮小して、儲けのある部分に特化していこう、ということで、それを世の中では「リストラ」なんていったりするのだろう。結局、どうなるか。当然、人は減らされる、そしてパーツなんていうのは儲けのなさに関しては筆頭格の部門、これはもう切られるのは火を見るよりも明らか。行き着く先に見えるは、そう、「失業」の二文字である。この辺の事情に関しては、先の1月7日 へっぽこ日記拡大版に詳しく書いてあるので今ここで改めて触れないが、ここに3月末までには新しい仕事のめどをつけないとやヴぁいぞ、という認識が出てきたのである。そんな中、年を越すべく東京へ出て行き、とりあえず先のことは忘れて楽しいひと時を過ごし、多くの友たちと時間を共有し、某氏に「じゃ、3ヵ月後東京で」とか言って別れてこっち…じゃない、札幌に戻ったのが1月5日の朝、その足でいつものように職場に赴きそこから3連投、3連投目の7日に、支店長様から契約社員・バイトにも通達があったのは、これも「1月7日〜」に書いてあるとおりである。私はあの時、末尾を「そんなわけで、ひょっとしたら3ヵ月後にふっと東京に出没するかもしれません。大阪になるかもしれません。その時は温かく迎えてくださいね。」と結んでいた。これを書いたのが7日夜、実はこの日の後私は連休だったのだが、この連休がすべてを決めてしまっていた。連休初日の8日、私は東京のさる会社(某パソショップのことである)に電話をかけていた。内容はこうだ。
「HP見たっけ、東京か札幌か大阪で就職の口ないかいの?」
そうすると、こういう返答が帰ってきたのである。
「そうですねぇ、大阪ならありますがただできるだけ早く来れる人が欲しいんですわ。いつぐらいから出て来れます?」
実は、前のショップもそうだったのだが、とかく展開が急なのである。前のショップもできるだけ早く来てくれ、といわれ、とりあえず残務処理が片付きそうな1週間後ということで話をつけてきたのだが今回はわけが違う。大阪に引っ越さなければならないのだ。しかも、ただ引っ越すだけでなく住む場所も決めなくてはならない。いくら実家が大阪だとは言え、いまさら実家にかえる気なんてさらさらないし、そもそも実家には自分が入るスペースなんぞ残っちゃいない。それで、向こうとしても恐らくぎりぎりであっただろう28日(後から聞いた話だと、16日からすでに人員不足だったらしい)から働けるのなら面接をしましょう、というような話の流れとなっていたのであった。面接も、本来なら東京の本社、ないしは大阪の店長とするべきところが如何せん話が急すぎてそんなことしてる暇もなさそう、ということになり、急遽札幌店の店長とする、ってな話になり、その日取りも翌日、つまり連休2日目の9日と相成ったのである。
 面接に関しては結局前のショップと同じ、いかに自分を売り込むか、どうすれば自分を買ってくれるかというのを事前に考え受けてる上に、向こうとしても人数が足らないのは割と深刻だったのだろう、その辺の事情もなんとなく見えてきていたのでこちらも多少は強気に出られようというもの。こんなときの面接なんてほとんど立場的には対等に近いものがある。まして売る商品の中身は自分が一番よく知っている「自分」という商品、こんな楽な「営業」はない。採用不採用、どっちにしてもとっとと返事くれ、できれば今日中に返事くれ、ってな多少の無茶もしれっとした顔で(もちろん、口調は丁寧だが)言ってみたりして小一時間の面接は終わり、店を出たのが12時ごろ(面接は11時からだった)、なんやかんやと過ごしてるうちにその日に逢う予定だったダチから電話が入ったのが1時半頃(2時に逢う約束だったけど、ちょっと早いがもう逝っていいか?ってな内容だった)、そしてまさにそのダチが来るか来ないかって時に(時間は2時ちょい前)電話が鳴り、めでたく採用と相成ったのである。さぁ、ここからはもう大騒動、実家に連絡して適当な部屋を探してもらいつつ、こっちはこっちで引越の準備やら店に報告やらお世話になった人たちへのお礼参りやらそしてだいぶ前から決まってた某S氏来札歓迎会やらでもうてんてこ舞いの約20日間であった。何とかかんとか23日で荷物をまとめることができ発送、その後を追うように25日の朝、札幌を立ち、函館からの寝台特急日本海4号のA寝台個室で大阪へと凱旋、2日ほどの間をおいて予定通り28日より今の店で働き出した、というこういう流れとなったのであった。

9.結局のところ…
 今までの、決して長くない人生を振り返ってみるに、結局行き当たりばったりというか、深く考えていないというか、つくづくそう思う。基本的には要領で乗り切ってきた面が多々ある。というか、人生の大半が要領で、その要領が悪かった時期というのが、退学後の1年だった、といったほうがいいかもしれない。正直なところ、あの時期は自己嫌悪の嵐で、まったく先が見えない、陰鬱とした日々を送っていた。でも、それは今思えば結局は自分で自分の目を隠し、手を縛り、勝手にのたうっていただけだった。人間、その気になれば何とでもなるもんだ、というのが最近の感慨である。とかく、随分と前向きになった。これは明らかに最初の職場での経験や交流が大きな影響を与えている。若い頃の苦労は買ってでもしろ、というのはけだし金言かもしれない。一度「地獄」を見ておくと、後々随分と楽になる。現状に文句をいうよりも、現状の中でどう生きていくか、ということを考えるほうが幾分有意義ではなかろうか。人間、人生の中で一度や二度は「自分ほど不幸な人間はいない」なんて言うことを思ったりするものだろう。私も何回かそう思ったことがある。でも、世の中にはそれ以上につらい思いをしてる人なんてごまんといるというのも、これはもうまぎれもない事実である。その事実があるからといって自分の情況が好転するわけではないだろう。他人は他人、自分は自分だから。でも、悲劇のヒーローヒロインを気取ったところで何も事態が好転しないのもまた事実である。それなら腐って言い訳をして現状を打破しようとしないよりも、精一杯あがいてみるしかないんじゃないだろうか。この世の中、努力が報われるとは限らない。努力しなけりゃ報われないとも限らない。でも、努力したほうが報われる可能性は高いようだ。なら、できるだけの努力はすべきなんじゃないだろうか。それが、この、札幌生活のラスト1年で得た私の教訓である。これからも、多々波があるとは思う。でも、その時はもうくよくよしたりせず、常に前を向きつつ、普段は後ろ向きに全力疾走、そして立派な駄目人間として生きていこうと思う。

2002年2月7日 えらそうなこと並べてる割には膝にセリオの抱き枕を抱きつつ


追記:私が前に勤めていた札幌のショップは、3月15日付でいったん閉店、残務整理の後にサプライ系オンリーの店として再開するとの事である

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